その「あたりまえ」って本当に「あたりまえ」?
わたしの嫌いな言葉、考え方に「普通」「あたりまえ」っていうものがあるんですけど。
「普通はさ〜、、、」
「、、〜てのが普通じゃない?」
「〜なのはあたりまえじゃん!」
ってな具合で使われたりする。この感覚って無自覚に刷り込まれてる、いわば洗脳に近いものだと思うんですよね。例えば、幼少期から「これは良いけどこれはダメ」みたいな躾ってよくあるじゃないですか。こういう躾の積み重ねが、この感覚を醸成している気がしてならない。
ただこの記事では、その躾を批判したいわけじゃなくって(時と場合によっては有効な躾であることは百も承知)、この刷り込みを取り除くことは不可能じゃないって事が言いたい。加えて、この刷り込みを排することは、間違いなく幸福度をあげるって思うわけ。
わたしたちの周りってあたりまえとされてることで溢れてません?もちろん犯罪はダメとか、人道的倫理的にアウトなことではなく。
「大学は行っとけよ」
「男らしくな、女らしくな」
「正社員以外ダメ」
「転職は3年続けてから」
みたいな。ね?くだらないでしょ?これらを言う人に根拠を聞いても、なにも返ってきません。なぜなら、その世代すら既にこの考えを昔から刷り込まれた被害者でもあるから。
理由なんてないんですよ。それが彼らにとっての「あたりまえ」と化しているから、それがなぜかなんて考えることすらしません。わたしたちもその考え方を知らず知らずのうちに押し付けられ、なにかしてはいけないことのような、"普通"とはどこか異なっているかのような、存在しない謎の規範に沿おうとして息苦しさを感じてしまうわけ。
早い話が、わたしたちの生き方、や選択にケチをつけられるような「あたりまえ」なんて存在しないんですよ。思い出してみてください。本当はやりたかったこと、したかったことのいくつがこの無根拠の「あたりまえ」によって潰えてきましたか?
本当はアルバイトでもいいから、好きな仕事に就きたかった。
大学にいけと言われ、スポーツ選手になる夢を諦めた。
3年働けと言われ、気付けば25歳、、もう潰しがきかない。
みたいなね?
もう一つ付け加えると、「あたりまえ」を押し付けてきた人間は、わたしたちの失敗や人生の責任は絶対とってくれませんから。「3年は働けよ」と言われ、1年で辞めたかった仕事を無理して続けた結果、鬱病になってしまったら?「あたりまえ」を押し付けた人間は、献身的に寄り添い完治までサポートしてくれますか?いえ、してくれません。彼らは無責任なんですよ。言ったことすら覚えていないかもしれません。
わたしたちはこの世に生を受けました。広大な原野に人間たちが建物を建て、コンクリートを敷き詰め町を作りました。そこで生活するうえでルールを決め、リーダーを擁立し、統制を保ってきました。わたしたちは人間たちが勝手に決めたルールや「あたりまえ」の中にたまたま産まれただけ。この世に生を受け、広大な原野で生を全うするという、人間的言わば一匹の動物的な生き方をする権利は有しています。
寝たい時に寝る、食べたい時に食べる、時間を無駄に食い潰す、元来全て自由なはずなんですよ。この地球で自分らしい生を全うすることに、「正社員になること」なんて入り込む余地ありますかね?
極端な話、わたしたちは時が来たら皆死にます。残念ながらこれは事実です。この世で「あたりまえ」に沿いながら我慢して生きても、自分らしく自由に生きても、皆死んだら同じなんですよ。あの世ではこの世の頑張りを評価してくれる制度でもあるんですかね??それとも「あたりまえ」を無責任に押し付けてきた彼らがあの世で責任でもとってくれるんですか?
今やりたいことがある人、また逆に辞めたいことがある人。それが実行に移せないのは何故ですか?もしかして、根拠のない「あたりまえ」のせいではないですか?
わたしは全てを強制つもりは全くありません。3年仕事を続けてみて、その先で成功を手にするかもしれません。大学へ行ったら知らない世界が開けるかもしれません。大切なことは、「あたりまえ」に沿ったのではなく、自分自身で選択したのかどうかです。
自分がしたい選択をする権利は皆有しています。早すぎることも遅すぎることもなく、正解も不正解もありません。っていうかそんなの後からついてくるものでしょ?何も知らない外野が「それは間違っている!」なんて「あたりまえ」を押し付けてくるなんて、余計なお世話だバカヤロウ!って感じでしょ。
わたしはこのブログを通して、日々に息苦しさを感じている人に対して、「あたりまえ」から抜け出すための手を差し伸べたい。悩みがあればコメント頂ければ返しますし。
自分の人生は自分で決める。自分が選んだ選択が誰がなんと言おうと正解なんですよ。