背広着た家畜

適当に喋ります。暇ぐらいは潰せるはず。

知ってるけれど忘れてる価値

 こんばんは。いきなりですけど質問です。

 

 「もし明日死ぬとしたら何をしますか?」

 

 抽象的すぎましたかね。では質問を変えます。

 

 「今あなたは余命を宣告され、人生の残りの時間を目の当たりにしています。そこへ神様がふらっと現れ、10年の命を売ってくれると言うのです。あなたはいくら払いますか?」

 

 人生は一度きり、と言う事実を知らない人はいません。しかし多くの人が忘れやすい事実でもあります。なぜなら日常で何気なく生活していれば「死」という物は、非常に遠く見えにくいものだからです。では、上記の問いのように「死」が目の前に現れたらどうでしょう。皆、狼狽し、多くの後悔に襲われ、「もっと時間があれば、、、」と思うわけです。そこから人間は残り時間を意識した後悔のない人生を過ごし始めるわけです。

 では、今現在の皆さんの生活は余命何年の生き方でしょうか?やりたくないことをやって。やりたいことは先延ばしにして。人の目を気にして。レールに乗っかって。まるであと数百年生きるつもりかのような、のんびりゆったりした生活です。なのに「死」を前にしたら一丁前に焦るんです。矛盾してませんか?

 当然ですが、どんな大富豪でも「時間」というものを買うことは出来ません。失った時間は取り戻せず、ただただ進むのみなんです。先が見えると大枚叩いて手に入れたい時間を、今はまるで無限かのように粗雑に使う。こんな勿体無いことやめませんかね。

 本当に人っていつ死ぬかわかんないんですよ。明日のこの時間に生きてる保証なんてありません。極端な話、このブログを読み終えるまで生きてる保証すらないんです。やりたくもないことやりながら終える一生ってどうですか?今際の際にそう思ったって遅すぎるんですよ。

 

 全員好きなことやれ!みたいな差し出がましい事を言うつもりはありませんが、人生は1回ってことを再度伝えたかったんです。当たり前のことすぎて数秒後には忘れてしまうようなことですから、何度でも言いたいんです。この意識を持ってるだけでも人生って変わってくると思うんですよ。

 多額のお金を投じて何かを始めるなんて大きな事ではなくても、小さな良い選択でいいんです。

 

いつもはNoと言うところをYesにしてみよう。

外出めんどくさいけど、ちょっと出かけてみよう。

今日はちょっと贅沢してみよう。

いつもは絶対頼まないもの食べてみよう。

 

 なんだっていいんです。小さな変化に見えても、後々大きな影響を与える可能性だってあります。それが悪い影響だろうが、いつも通りの生活では絶対に味わうことのなかった変化を味わえるんです。なんか生きてる感じがしませんか?

 

 

 

 

その「あたりまえ」って本当に「あたりまえ」?

 わたしの嫌いな言葉、考え方に「普通」「あたりまえ」っていうものがあるんですけど。

 

「普通はさ〜、、、」

「、、〜てのが普通じゃない?」

「〜なのはあたりまえじゃん!」

 

 ってな具合で使われたりする。この感覚って無自覚に刷り込まれてる、いわば洗脳に近いものだと思うんですよね。例えば、幼少期から「これは良いけどこれはダメ」みたいな躾ってよくあるじゃないですか。こういう躾の積み重ねが、この感覚を醸成している気がしてならない。

 ただこの記事では、その躾を批判したいわけじゃなくって(時と場合によっては有効な躾であることは百も承知)、この刷り込みを取り除くことは不可能じゃないって事が言いたい。加えて、この刷り込みを排することは、間違いなく幸福度をあげるって思うわけ。

 

 わたしたちの周りってあたりまえとされてることで溢れてません?もちろん犯罪はダメとか、人道的倫理的にアウトなことではなく。

 

 「大学は行っとけよ」

 「男らしくな、女らしくな」

 「正社員以外ダメ」

 「転職は3年続けてから」

 

 みたいな。ね?くだらないでしょ?これらを言う人に根拠を聞いても、なにも返ってきません。なぜなら、その世代すら既にこの考えを昔から刷り込まれた被害者でもあるから。

 理由なんてないんですよ。それが彼らにとっての「あたりまえ」と化しているから、それがなぜかなんて考えることすらしません。わたしたちもその考え方を知らず知らずのうちに押し付けられ、なにかしてはいけないことのような、"普通"とはどこか異なっているかのような、存在しない謎の規範に沿おうとして息苦しさを感じてしまうわけ。

 

 早い話が、わたしたちの生き方、や選択にケチをつけられるような「あたりまえ」なんて存在しないんですよ。思い出してみてください。本当はやりたかったこと、したかったことのいくつがこの無根拠の「あたりまえ」によって潰えてきましたか?

 

本当はアルバイトでもいいから、好きな仕事に就きたかった。

大学にいけと言われ、スポーツ選手になる夢を諦めた。

3年働けと言われ、気付けば25歳、、もう潰しがきかない。

 

 みたいなね?

 もう一つ付け加えると、「あたりまえ」を押し付けてきた人間は、わたしたちの失敗や人生の責任は絶対とってくれませんから。「3年は働けよ」と言われ、1年で辞めたかった仕事を無理して続けた結果、鬱病になってしまったら?「あたりまえ」を押し付けた人間は、献身的に寄り添い完治までサポートしてくれますか?いえ、してくれません。彼らは無責任なんですよ。言ったことすら覚えていないかもしれません。

 

 わたしたちはこの世に生を受けました。広大な原野に人間たちが建物を建て、コンクリートを敷き詰め町を作りました。そこで生活するうえでルールを決め、リーダーを擁立し、統制を保ってきました。わたしたちは人間たちが勝手に決めたルールや「あたりまえ」の中にたまたま産まれただけ。この世に生を受け、広大な原野で生を全うするという、人間的言わば一匹の動物的な生き方をする権利は有しています。

 寝たい時に寝る、食べたい時に食べる、時間を無駄に食い潰す、元来全て自由なはずなんですよ。この地球で自分らしい生を全うすることに、「正社員になること」なんて入り込む余地ありますかね?

 極端な話、わたしたちは時が来たら皆死にます。残念ながらこれは事実です。この世で「あたりまえ」に沿いながら我慢して生きても、自分らしく自由に生きても、皆死んだら同じなんですよ。あの世ではこの世の頑張りを評価してくれる制度でもあるんですかね??それとも「あたりまえ」を無責任に押し付けてきた彼らがあの世で責任でもとってくれるんですか?

 

 今やりたいことがある人、また逆に辞めたいことがある人。それが実行に移せないのは何故ですか?もしかして、根拠のない「あたりまえ」のせいではないですか?

 わたしは全てを強制つもりは全くありません。3年仕事を続けてみて、その先で成功を手にするかもしれません。大学へ行ったら知らない世界が開けるかもしれません。大切なことは、「あたりまえ」に沿ったのではなく、自分自身で選択したのかどうかです。

 自分がしたい選択をする権利は皆有しています。早すぎることも遅すぎることもなく、正解も不正解もありません。っていうかそんなの後からついてくるものでしょ?何も知らない外野が「それは間違っている!」なんて「あたりまえ」を押し付けてくるなんて、余計なお世話だバカヤロウ!って感じでしょ。

 

 わたしはこのブログを通して、日々に息苦しさを感じている人に対して、「あたりまえ」から抜け出すための手を差し伸べたい。悩みがあればコメント頂ければ返しますし。

 自分の人生は自分で決める。自分が選んだ選択が誰がなんと言おうと正解なんですよ。

上下関係の悪用

 わたしは4月から社会人となり、ある企業に勤めています。右も左も分からず、新しいことを覚えることに精一杯。先輩から幾度となく注意を受けながらも日々邁進中、、、、。

 言うまでもなく、わたしは1番下っ端。仕事もろくに出来ず、上司からの指示に対して唯唯諾諾と動くのが勤め。しかしながら、本日上司からされたある指摘に対して疑問が拭えない。

 

 「君は1番下なんだから電話をとれ」

 

 電話をとれ、は分かります。1つは電話の練習。これから幾度となく電話を取ることになるでしょう。そのための練習、電話慣れのためと。2つめは電話でお客様から質問された際、それに答えること自体が自分の知識の蓄積にもなる。要は勉強のためと。

 

 ただ、今回の指摘は上記2点の理由ではないんですよ。「1番下だから」です。下っ端は思うように仕事も出来ません。百歩譲って、自分の仕事で手一杯の先輩方の代わりに電話を取ってあげて!、ならわかります。しかしその時は朝礼時。全員が出れる状態だったわけです。

 

 

 ここまでダラダラ書いてきて、「なんで下っ端が電話にでなきゃいけねーんだ!!プンスカ」ってことが言いたいわけではありません。わたしも下っ端である事を痛いほど自覚しており、電話は1番に出るようにしています。

 なにが言いたいかって「1番下だから」という言い方は適切なのか、ということです。なら役職がついた上司は電話に出る必要はないんですか?ならばそれはなぜですか?1年目だとなぜ電話にでなければいけないんですか?

 「そういうものだ!」「そういうことになっている!」

 

 等は理由として一切認めません。

 極端じゃないかと言われるかもしれませんが、〇〇だからという言い方は、大きな危険を孕んでいると思うんです。例えば、上記先輩の言い分に同意する人にお尋ねします。

 

 男は仕事、女は家事をすべきと思いますか?

 

 おそらく多くの人はこれに反対するでしょう。今は多様性を認める時代。男は、女は、の先入観はいけない、と。でもこれって「下っ端は電話」となにが違うんでしょう。

 わたしは先入観や、よく分からないルールや伝統を盲信し思考停止に陥っている人を信用しません。

 

 理屈っぽいですか?社会をなめていますか?学生気分が抜けていませんか?甘いですか?

そう思うあなたはもう洗脳済みです。客観的に自分や環境見つめ直してみましょう。自分と向き合い直すことが、唯一の方法です。

逃げたら負け?

 「逃げるな!逃げたら負けだぞ!」

 「そんな弱い人間でいいのか!」

 「逃げたら成長できないぞ」

 

 はい、以上わたしの嫌いな言葉達でした。これらの戯言を逃げたい人たちに向かって、馬鹿の一つ覚えみたいに白目剥きながら垂れ流す人いますよね。

 逃げたら負けなんですか?弱いんですか?わたしはそうは思いません。逃げたいなら逃げる。苦痛なものや耐えがたい環境から逃げるのって人として普通の行動だと思いませんか?

 

 「いやいや、そこで逃げずに頑張るからこそ成長できるんじゃん〜」

 

 なるほどね。そうかもしれません。ただそうではない人も確実にいます。なにが言いたいかって、早い話が、さも一般論かのような常識であるかのような顔をして、万人に当てはまる事だと思わないでほしい、ということ。

 耐えがたい状況やのっぴきならない環境に身を置いていて、命を投げ出す選択をする者もいるんですよ。これは事実なんです。

 もう自分では処理出来ないほどどうしようもなくなって、他人に勇気を出して相談してみたら

「逃げたら負け」

なんて言われたらどうですか?挙げ句の果てに弱いやつ認定までされて。

 あまりに酷いと思いませんか。それに対して「いやいや、おれらの若い時はな〜、、、」なんて反論をする人は言わずもがな論外です。

 

 要するに、客観的な価値観を他者に押し付けることの罪深さや責任を知るべきです。頑張れ!や逃げるな!と鼓舞しているつもりが、相手をさらに追い込む結果となり得ることを自覚するべき。

 

 今逃げたい人。逃げてもいいんですよ。それに勝ち負けなんて絶対的にありません。逃げた先の景色が明るいかなんて分かりません。けど、今いる場所が暗澹と淀んでいることは確実に分かります。ならば、現状を抜け出して、明るい景色を探しに行きませんか?

 その先が暗かったら?また逃げ出せばいいんです。逃げる事は全く悪い事じゃない。弱くないし、負けでもない。

 そんなこと言う人たちには決して見えない、逃げ出した者だけの景色を見たいじゃないですか。

差別の芽はいつも側に。

 差別について。

 

 差別はいつの時代にも、人が存在する限りあり続けるものと思う。なかでもBlack lives matterは象徴的で記憶に新しい。白人が黒人を虐げ、人種に優劣をつけてきた恥ずべき歴史や現状に、マイノリティが声を上げている。

 他方で、コロナウイルスに懸命に立ち向かう医療従事者に対する差別もある。医療従事者の子供は学校に来ないで、とかって言い分が平気でまかり通っているのとかを聞くと、ゾッとする。

 しかもこれら差別の何が恐ろしいって、差別する側は悪の意識が比較的薄い事だと思う。彼らは彼らなりの「正義」や「正しい(と思い込んでいる)」ことを武器に平気な顔して、弱者の味方のフリをしてる。

 

 白人のため!コロナウイルスを広げないため!

これってすっごい怖くないですか?それはいけない事なんだよって説法は彼らには効かないんですよ。何故なら正しい事だと思い込んでいるから。

 

 とここまで書いてきて、大多数の人は差別反対!するやつの気がしれん!くらいに思ってる気がします。ただ、本当にそうですか?と問いたい。

 例えば、ワイドショーで頻繁にアンジャッシュ渡部の不倫騒動が取り上げられてました。私的にはあのニュースはすこぶるどうでも良いなって思ったんですが、あのニュースに対して、まるで友達が被害にあったかのような形相で渡部を非難していた人たち、そしてそれが普通であるかのような空気が醸成されていたこと、これに物凄い違和感と気持ち悪さを感じました。

 確かに有名芸能人の不倫騒動はインパクトがあり、騒ぎ立てたくなる気持ちもわかります。けれど、渡部だって1人の人間です。我々と同様傷付いたり、泣いたりする1人の人間なんです。

 私は、不倫を責めるな!ってことが言いたいのではなく、早い話が、あの騒動で渡部を責めていたとき「正義」を振りかざして正しいことをしている自分に酔ってませんでしたか?1人の人間ということを忘れてませんでしたか?って事です。

 

 人の良心は(それが正しいか否かは別として)、簡単に倫理感や他者の存在を見えなくするものなんです。噂話や陰口だってそうです。自分が正しいと思うからこそ、他者の行動や言動等の振る舞いが奇異な物として映ってしまうんです。「あの人って〇〇らしいよ〜」なんて噂話は、自分の正しいと思い込んでいる価値観や行動を基準としているからこそ、他者がそれから外れていると出てくるんですよ。

 

 差別の芽はいつも側に。一つ一つの言動思想には、自分自身の都合の良い価値観が当てはめられていないか。今一度問い直してほしい。

 いろんな人がいたっていいじゃん。

今時の子だね....について。

 私の会社はもの凄く体制やシステムが古く、過去のやり方にすがって変化にビビり、『古き良き』『伝統』『〇〇年の歴史』みたいな言葉にしがみついているようなところ。

 

 これが令和の会社?!と何度思うか。

 

 と、そんな会社で上司によく言われるんですよね。

 

 「今時の子だなぁ、、、」

 

 って。

 これは全てネガティブな文脈で使われます。

例えば、私はお酒が得意ではないのですが、飲みの席でお酒を断ると、

 

 「今時の子だなぁ」

 

 と続くわけです。

 

 もちろんこの例が全てではありませんが、

「これが組織に属することか、、」と腹をくくれないわたしは辟易するわけです。

 というか違うと思います。いろんな人がいて、尊重し合いながらも組織って成り立ちますよね。

 

 誰かが決めた方向をみんなで向いて、外れた人に対して、「今の子」とレッテルを貼るのってどうなんでしょう。

 こちらからすれば「昔の人」であり続け、過去を生きている上司を笑いたくなったりするのですが。

 

 取り止めもなく書いたので乱文ですが、言いたいことを是非とも汲み取って頂きたい。他力本願ですまない。

 これも「今時の子」ゆえ、、?

政治的トピックの位置づけ

 ども。

 

 なんとなーく気になった話題を一つ。

 ただ先に言っておくと、この記事を書くに当たって、論文やら文献やらを参照したわけでは無いので(暇なくせに)、間違っていたり鵜呑みにする事のないよう、、、あしからず。

 

 ふと感じた事。政治的なトピックの日常生活における立ち位置について。

 

 「黒川検事長の定年延長問題」、「コロナウイルスへの対応」、「桜を見る会」、「アベノマスク」等々、、

近頃これら問題に対して、多くの人の関心が集まってますよね。

それに乗じて、芸能人をはじめとする、アーティストや漫画家など著名人が意見したことも話題です。

 

 

、、、、、ここに違和感。

 

話題にしたことが話題。

 

 

 自分の国の話、もっと大袈裟に言えば、我々が生きている世界の話ですよね。

これに対して異を唱える事になんの問題が?

 

例えば、アルバイト先の店長が、自分にとって有利な利己的な決定を下そうとしている。

しかもどうやらその決定によって我々の賃金低下、ないしは雇用まで失うかも。理不尽。

 

反対します!店長!

 

いやいや、君って確か◯◯だよね?あんまそう言うこと言わない方がいいと思うよ?

 

、、、、おかしくない?◯◯であったとしても、そこの社員であること、決定による被害を被る事には変わりない。

立場によって意見が封殺されるって、ロジックが分からない。

 

新人研修でも耳にタコができるほど言われました。

 

「政治の話はするな」

 

言わんとしていることは分かりますよ。お客様を不快にさせてしまうかもしれないからね。

けど、あからさまにお客様ってわかってるのにさ、

 

「◯◯党はアホじゃ!」

 

なんて言わないでしょ。

要は、政治的トピックそのものを禁止することって無関心を招きかねないと思うんす。

 

今、不幸中の幸いと言うべきか、図らずも若者が政治に関心を向け始めてる。

 

セイジトピック?、、、ダメダメダメーーーー!

 

みたいな思考停止はやめたい。禁止すべきは、政治的思想を用いて相手を過度に非難したり、中傷することでしょ。

 

政治的トピックそのものをタブー視するのは、さすがに時代遅れだと思う。

天気の話くらいフランクにできないですかね。

 

 

では。